逆立した自己を演じる

社会と逆立した自己を演じているとき、人はあたかもそれが真実であったかのように思い込むことができる。またそれが他者に共有されていたかのような気持ちになる。ともに生きた心地がする。けどこれはほんとうか。

よくある話がある。

電話の相手は誘拐犯である。電話をしながら道の向こうの人間の姿が目にうつる。その人も電話をしているが、自分と違い微笑ましい笑顔をしている。絶望とは無関係な時間をもっている。絶望的な自分との対比。しかし実はそいつが誘拐犯で、まさにいま自分と電話を通して会話をしているのはそいつだ。そのことに自分は気づいていない。

出合い系でみつけた異性と電話で性的な会話をする。何度も。甘い世界に入る。しかしじつはそれは長年見向きもしなかった配偶者だった。となりの部屋にいる。互いにそのことに気づいていない。

秘密のツイッターで外界の人間への憎しみを述べる。それに賛同してともに憎んでくれる仲間がネット上にはいる。しかしその仲間こそ実は外界で憎しむとうの相手だ。外の世界では嫌い合っているのに、秘密の世界では外への憎しみを通して共感しあってる。互いにそのことにまだ気づいていない。

 

外部の社会と逆立し、逆立する意識を見せ合うことによって、互いにつながったという、感触を得る。しかしそれは否定的媒介を活用して空に投射した虚構にすぎぬ。あとからみてそうあったかのようにみえるもの。視角をずらしてピントがずれたときにのみ、あたかもそこにそれがあったかのように、見えるもの。

 

積もった涙を流してみたところで、あるいは露悪的に叫んでみたところで、日常と逆立するがゆえに成立する幻想の超越性にすぎぬ。それを通して人々とつながれたように感じられる、生き生きとみずからをあらわしているかのように感じられる、虚構にすぎぬ。

 

そんなふうに工夫をして、ごまかして、なんとかして幻想にすがろうとする。そこまでして生きようとする。人とつながろうとする。うそでも超越性を見ようとする。それがわれわれである。一生懸命で、けなげである。必死である。ほんとうだと思い込んでいる。ファンタジーに浸ってるだけなのに。かわいそう。

 

その超越性は仮象です!

 

燃えかす、残り香みたいなもの。