ルールというのは破るためにある、ただし。

 宮台真司の「ルールというのは破るためにある」という説明が絶妙である。

 曰く、破ることによって、破った者同士の共通感覚=仲間意識を養い育てることができる。

 そのためにルールというものは存在する、と。

 ただし、やりすぎはダメ

 このただしがきが重要である。

 すなわち、どこまでが許容範囲で、どこからが許容できないか、この点が「うちら」と「あいつら」を分ける分割線になるというのである。

 ルールをともにやぶろう、しかし、越えてはいけないラインは越えないようにしようぜ。もし越えたら、あなたは仲間ではない、と。

 性愛に広げればよくわかる話である。

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 性愛というのは個人領域への侵害をともなうから、上述のような「ストーキング」行為は、むしろ性愛にともなう必然である。われわれが行っているのは、事後から見て社会的に美化されやすいよう、結果を先取りして関係性を築く将来予想ゲームに過ぎない。性愛を実現するには、飛躍がともなうのである。命がけの飛躍。どれだけ丁寧なかけひきをつむいでも、ある一点で飛躍がある。痴漢、レイプ、ないしストーキングになり得る飛躍である。その形式のバリエーションには、程度・質の差があるに過ぎない。そしてこの差、どこまでが許容範囲で、どこからが越えちゃいけないラインであるかの境界線の位置は、相互の「仲間意識」ないし対幻想の成立条件になっている。そのラインは個々人によって違うし、個体内部でさえ時間的に変容していく。つねに動的であるということを意識することが肝心である。

 われわれはルールを破る、しかし、やりすぎはだめだ。どこまでが許容範囲であり、どこからがやりすぎであるかの、ラインの、互いの共有感覚によって性愛の正当性が担保される。

 したがって、ポリティカル・コレクトネスに対し「じゃあどうすればいいんだ」と開き直ってバックラッシュに走るのは、端的に勘違いである。コミュニケーションというのは、常に・すでに、失敗可能性・犯罪可能性に開かれ、侵害をともなうものだったのである。そしてどの程度の侵害が許容範囲であるのかは、時代と文脈と個人とライフステージによって異なる。今に始まった話ではないのだ。それを普段から自覚していないから、そのようになってしまうのだ。

 コミュニケーションをする人間は、自らの犯罪性を自覚しましょう。好むと好まざるとにかかわらず、世界というのは、ずっとそんな感じなのだ。

だから壊しましょう、なんとなく。
だから壊しましょう、なんとなく。