働く大人のナルシシズム-『カメ止め』論

*この記事は映画『カメラを止めるな』の内容を含みます。

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少年漫画のナルシシズム

 少年漫画には、主人公が感情の赴くまま怒りをあらわにし、周囲をかき乱すことによって状況を変え、周りの人間や世界を、救うようなパターンが多くみられる。これを「少年漫画のナルシシズム」と呼ぼう。このようなナルシシズムを身につけた人間は、自身の感情を直接世界へと開示することに、ためらいがない。なぜならそれが倫理的行動であると、当人において認知されているからである。

 想像してみよう。職場の片隅で、何があったのかはわからないがなぜか不機嫌そうにしていて、それを抑えようとする努力もせず、周囲にあからさまにし、かといって周りにいる人間に対して無関心であるわけではなく、チラチラと自他の視線を往復して他者の反応を伺う若者を。このような青年のナルシシズムのメカニズムは、以下のような形で構成されている。

 まず、彼がただ苛ついているだけである場合、それは彼が単に動物的水準にあるというだけであって、ナルシシズムではない。文字通りの意味で、本当に子供なんだろう。彼が少年漫画的ナルシシズムであるという場合は、そうではない。彼の苛立ちとその周囲への表明が、彼の中で倫理的行動として成立しているのである。どういうことであろうか。

想像的同一化と象徴的同一化

 ラカン精神分析の知見によれば、同一化には2つのレイヤーがある。想像的同一化と、象徴的同一化である。想像的同一化とは、彼が見つめる対象のイメージへの同一化である。他方で象徴的同一化とは、眼差し自体への同一化である。

モンキー・D・ルフィの怒り

 彼が少年漫画を読むとき、彼は二重の意味で作品に同一化している。まず、主人公への同一化。顔の表面へ独特の縦線をひくことによって怒りがあらわされるモンキー・D・ルフィへ、彼は同一化している。そのとき彼は、自身がモンキー・D・ルフィだと思い込んでいるのである。これが想像的同一化の水準である。次に、彼は、モンキー・D・ルフィに対する眼差しに、同一化している。具体的には、ルフィの周囲にいるキャラクターがルフィを見つめる視線に、あるいは、作品全体を超越的視点から統括し、ルフィの行為に倫理的意味を与える読者からの眼差しに、である。これが、象徴的同一化の次元である。彼は、自身がルフィであると思いなすことによってうっとりするだけでは充分ではない。彼は、ルフィの怒りを評価する周囲の登場人物や、作品構造全体からの眼差し、読者という超越的存在の眼差し自体に同一化することにより、うっとりすることができるのである。

恐ろしい子・・・!!!」

 少女漫画『ガラスの仮面』を読む少女は、無邪気に演技する主人公マヤに想像的同一化するだけではない。彼女は、マヤを遠くから畏怖する大人の眼差し、「恐ろしい子・・・!」と驚愕する大人キャラクターの、眼差し自体に、同一化するのである。これにより、彼女のナルシシズムが成立する。彼女は、自分が大人たちの畏怖の対象となっていることを感じ、うっとりすることができるのである。

私は豆です

 ここに精神分析学的な小話がある。ある患者は、自分が豆だと思い込んでいる。そのため、ニワトリに食べらるのではないかといつもハラハラして、外出ができない。医者は、懸命な治療により、彼が豆ではないということを、彼に納得させることに成功した。これで彼は、外出することができるはずだ。しかし、彼はすぐに戻ってきた。

「先生! 外にニワトリがいました、恐ろしくて外なんか歩けません!」

「なにを言っているんだ。君はもう、自分が豆ではないことを、理解したのだろう? どうしてニワトリを怖れる必要がある?」

「ええ先生、そうです。私は、自分が豆ではないことを完全に理解しました。私はたしかに豆ではありません。しかし、私がどれだけ豆じゃないと納得したとしても、ニワトリの方はまだ、私のことを豆だと思い込んでいるかもしれないじゃないですか!

 これが、想像的同一化と、象徴的同一化の、2つの水準である。ここで彼は、豆に同一化しているだけではない。彼は、自分=豆を見るニワトリの眼差しへも、(象徴的に)同一化していたのである。

私は私を見つめる眼差しへの同一化です

 ここで不機嫌な職場の青年に戻ろう。彼に対して、「不機嫌さをあらわにするのは素敵な行為ではない」と指摘し、彼がそれを理解したとしても、意味がない。患者に対し、彼が豆では無いことを教えても効果がないのと同様である。彼が真に理解すべきことは、彼の苛立ちを漫画の登場人物のようにうっとりと見つめる眼差しは、ここには存在しない、ということ、これである。  少年漫画のように、感情をあらわにする社会行為を評価する眼差しは、現代社会においては---たとえその感情に正統な理由があろうとも---存在しない。それは漫画作品の中にしかないのだ。怒りを撒き散らす登場人物に対しうっとりする眼差しを漫画の外で反復しようと、職場で展開してみせても、それは時間的差異を利用して迂回した自分への眼差しを自分で生成する、幼稚なナルシシズムである。漫画の登場人物を見つめる眼差しと同型的に、自分の知らないところから自分を見つめてくれる者は、---自分をのぞいては---いないのだ。そのような虚しい自己満足は、社会を、人を、動かせはしないのだ。

成熟したナルシシズムとはいかにして可能か

 社会の中に生き、社会を動かすべき使命を帯びた、成熟した成人であるわれわれは、少年漫画的なナルシシズムを脱しなければならない。そのためには、いかなるナルシシズムを自身にまとうべきかを、考えなければならない。

どのようなナルシシズムかが問題であって

 ここで、「ナルシシズム」自体を脱しようとしてはいけない。もし仮にナルシシズム自体を脱しようとしたら、おそろしいことになってしまう。そのようなことを試みたならば、世の中のあちこちに存在するナルシシズムを嘲笑的な描写でツイットし、リツイットの数に一喜一憂するような日常を生きる、なにものも生み出さない冷笑系イッタラーに堕してしまう。自身がナルシシズムとは無縁の超越的立ち位置に座しているかのように錯覚した場合、人生とは、そこまで悲惨になりかねないのである。そのような冷笑的無重力空間ではなく、重苦しく暑苦しい現実社会を、土まみれになって這いながらいやしく生きることにつとめるわれわれは、ナルシシズムを避けるのではなく、ある特定のナルシシズムを避け、健全なナルシシズムを、身にまとわなければならない。

特に仲がいいわけではない人たちとの共同作業

 われわれが今いるのは、現実の社会である。各々が自身の指向性をあらわにしては利害が一致せず、何もできなくなるような、そんな世界である(各々が自身の指向性をあらわにして統一性が実現できるのは、全体主義的な社会だけである)。

 普通、社会で生きる場合、少年漫画とは違って、特に仲良くない人たち、特に好きでは無い人たちとともに、共同作業をし、ひとつのものを達成する必要がある。各々好き勝手な指向性をもつがゆえに、全員が満足する解答はない。そんななか、自身の指向性を包みなくダイレクトに伝搬させる不遜な態度の人間や、自身をとりまく周囲社会の指向性の方へと自身の指向性を合わせることができない人間、その不一致に極度の不全感を抱く人間は、淘汰されてしまう。

カメラを止めるな!

 『カメラを止めるな!』とは、そんな社会を生きる、映画監督の物語である。彼はわれわれと同様、父親になり損ねた残骸、卑小な人間、リトルピープルである。 彼はプロジェクトを完遂するために、自分の声を押し殺す。他者に迎合することによってしか、プロジェクトを進めることができない。彼には地位も名声も金もないからだ。もし彼がはじめから、劇中劇の冒頭がごとく怒りを発し役者をビンタしていたならば、決してプロジェクトは完成しなかっただろう。

 彼は、選ぶことができる。周囲の人間に罵詈雑言をあびせ、少年漫画的なナルシシズムを発露させてプロジェクトを台無しにするか、自分の声を押し殺し、中途半端な作品になろうとも、作品をなんとか最後まで実現させるかを。そして彼は、後者を選んだ。だからこそ、有事において、彼の言葉に重みが加わるのである。カメラが回り始めたあとの彼の言動は、少年漫画的ナルシシズムではない。彼こそ、少年漫画的ナルシシズムを懸命に避けてきた人間であるのだから。だからこそ、有事において発露してしまった彼の指向の直接性は、周囲の人間に、絶対時間を構成する。普通、そのような絶対時間は起こりえない。起こりえないからこそ、われわれのナルシシズムの手本となるのである。いつの日か絶対時間が到来することを夢見て、われわれは日々、頭を下げ続ける。プロデューサーに作品をないがしろにされようとも、そこで声をあげることは許されない。「わっ...かりました」と、頭を下げるしかないのである。誰からも評価されず、親愛の娘にさえ軽蔑されようと、夜にひとり酒を飲みながら、涙を流すくらいしかできないのである。絶対時間は決して起こりえない、起こりえないからこそ、われわれは夢を見ることができるのである。永遠に到来しないであろう絶対時間の中においてのみ鳴り響く私の声と、それをうっとりとながめる観客の眼差しへの、同一化。その到来のために日々「わっ...かりました」を続けるリトルピープルとしての自分。これこそ成熟した大人が、実装すべきナルシシズムである。

奇跡

 特に仲がいいわけではない。そして妥協の連続のすえ完成した作品は、特に面白いわけではないし、誰からも評価されないだろう。現に、最初の37分が終わる前に席を立つ人間の方が、世の中の非情さを正確に反映している。これが現実だ。これを受け入れ、映画監督に同一化し、映画監督を見つめる観客の眼差しに同一化し、決して来ない絶対時間を夢見ながら、現実を駆動させよう。妥協のすえ、トラブルのすえにできあがった出来損ないの産物であろうと、バラバラな指向性をもった他者たちが共同作業を経て仕上げたプロジェクトが、映画のラストがそうであるように、満面の笑みを産みだすことも、もしかしたらたまには、あるかもしれないから。

(85分)