ネトフリ自死はリアリティショーとして成功なのか

リアリティショーとして成功だったのかどうか。

普段の生活で当人となんの関係もない匿名の視聴者たちは、事件を受けてしばらくは「感動」することができるだろう(悲しみ/怒り/ご冥福をお祈りします!許せない!メディアめ!誹謗中傷!)。当人に関係のあった人々は「もし〜していたら〜彼女は〜だったかもしれないのに」という表明で気分を持続させることができるし、視聴者はともになって「安全に痛い自己批判パフォーマンス」の登記に参列して、思い出に感動することができる(もし持久力があれば来年の命日にも)。リアリティショーの中で笑い、傷つき、泣く出演者の姿を見、出演者を非難し、または励まして、視聴者同士で言い争い、メディア批判に熱狂することの延長上に、この出来事はある。『マッド・シティ』でダスティン・ホフマンが叫ぶ「俺たちが殺したんだ!」というセリフは当然、そのセリフに感動すること自体も含めて、本件の通りである。

ショーの延長上にあるこれらは、当然、ショーの外部(の親族や友人)にとっての事件!としての性質とは異なる。我々は安全に感動できるし、感動の表明を連鎖させていくことができるから。

『資本主義的リアリズム』によれば、あらゆる事件!は流通にのった瞬間から、資本主義的な生産-消費の過程要素へ還元される。プロデューサーやメディア形式、誹謗中傷者への批判や、それら批判に対する批判さえも、すべてショーの感動的ストーリーの一部となるだろう。映え!の明滅のなかで、誰が責任をとるべきか=誰が「損」をするか、という部分だけがエージェント間を移動し、消費と感動を燃やし続ける。

ただ他方で、『資本主義的リアリズム』が不可避だとしても、良い生産-消費と、悪い生産-消費に分けることができると人は言いうる。我々が動物的に、リアリティショーをやめることはできないことは確かなので、生産者はいいショーと悪いショーを弁別しなければならない。事前に病歴や、潜在性を身辺調査をするなど…身もふたもない話だが! もちろん、プロデューサーはギリギリのライン、自殺はさせないがリスカはさせる、または、リスカはさせないが三日三晩枕を濡らせる、など、極限を追求する。プロデューサーの欲望を止めることができないのはもちろん、コンシューマーがそれを欲望するからである。コンシューマーの熱狂を呼び寄せるからである(さしずめ『キャビン』の地下に蠢く神話の神々といったところか)。綺麗な落としどころとしては、「深く傷ついたからこそ、強くなれた」という形が、生産過程を脅かさないし、消費過程も安全に泣ける、といったところか。

消費者として、別のあり方はあり得るのか。動物的にリアリティショーを消費することが不可避なのであれば、それでもなお消費者がかろうじて人間性を保つためにはどうすれば良いか。これも身もふたもなく、人間として己の動物性を自覚するくらいしかない。

ラカンのいう「馬鹿」とは 自分が即自分であることを疑わない者、自分自身にたいして弁証法的に媒介された距離をおくことができない者のことである。

イデオロギーの崇高な対象』より

それくらいしかないと自覚することは、生きる気力を失うにじゅうぶんかもしれないが。一方、開き直って動物化をおしすすめるのもいいかもしれない。スラヴォイ・ジジェクによると、欧米の仏教ブームは、メディアの発達で一個人には受け止めきれなくなった世界の複雑性を、動物的に防衛する様式のひとつである。複雑な網の目を注視することは難しいばかりか、それに耐えきれない者へ実害をなすから。メンタルをヘルシーに保つことを大目的に、世界から目を背け、対立(逆立)を忘却へ廃棄する動物化装置である(『哲学とは何か』より)。日本的文脈に置き換えれば、「ヨガ」「瞑想」「メンタリストDaigo」というキーワードで、だいたいの状況はわかるだろう。別言すれば、人間の人間性を捨てることである。

だが、二者択一ではない。つまり、バカになるかどうか、と考えてはいけない。どの分野でどの程度バカになるか、と考えなくてはならない。委託と受託の連鎖の網の中に入って、誰を信憑し、誰から信憑されているのか、その網の中の位置に対して、選択的であることを自覚しさえすれば、かろうじて人間、としては足りるのではないか。パチモンの除菌剤くらいに薄ら寒い希望だが、人間性をすてるよりかはマシ、と思うことでしか、生き延びることはできないのではないか。