高校生が主人公のアニメを見ても胸がときめかないようになった

 最近、アニメ界で人気のある『青春ブタ野郎はバニーガール先輩の夢を見ない』を見ていて気づいた。 すでに自分は30歳を過ぎているから、高校生が主人公のアニメを見ても、煙がからだを通り抜けるように、入ってこない。 そうして見わたしてみれば、『青春ブタ野郎』に限らず、高校生が活躍するアニメの多いこと。 自分には無関係だ、という風に思うようになった。

 他方で、どのようなアニメが自分にヒットしうるのか。 考えてみた。

 中年男性が主人公のアニメであれば、どうか。 かつて『タイガー&バニー』は分かりやすく、自分にヒットした。 時の流行に乗り遅れ、年々、体力=能力の衰えを感じる男性の物語だ。 老いた母や田舎の娘が出てくるのもいいし、時代の寵児である若いヒーローに振り回されるところもいい。

 他方で『エンジェルビーツ!』は自分の中でも特殊な消費の類になる。 これは、高校生活を送る若者たちが主人公の物語である。 そこは「死後の世界」である。 登場人物らは、若いうちにろくでもない死に方をした。だから、楽しい高校生活を送れなかった記憶をもつ。 そうして成仏できないまま、永遠の高校生活を過ごすのである。 そしてまた、彼ら彼女らは、そのことを、自覚している。 この点こそ、ろくな10代を送れずに、みじめな死=中年を迎えた人間の、胸をうつ。 30を過ぎても高校生が主役のアニメを繰り返し見る理由は、作中の彼らが死後の世界で高校生活をやり直す宿命と同型的である。 あり得たかもしれない世界がそこにあり、別の人生として空想することで成仏しようとしているのである。

 何度も見てしまう回がある。 第6話「Family Affair」である。 ある特殊な人物が現れる。彼は、主人公らの悲惨な過去の記憶を催眠術により上書きし、無理矢理その魂を成仏させようとする。 主人公は激高し、記憶を上書きしようとした彼を殴り倒す。そして叫ぶ。 「俺たちの生きてきた人生は本物だ 何ひとつ嘘のない人生なんだよ みんな懸命に生きてきたんだよ それがどんなものであろうが 俺たちの生きてきた人生なんだよ それを結果だけ上塗りするようなことをするな」 普通、現状の惨めな自分を見下ろしたとき、ああすればよかった、こうすればよかった、本来の自分はこんな風ではなかったと考える。 そうして、まったく別の在り方こそ本来的な生であり、いま、自分がいる場所は、偽の場所、非本来的な場所なのだと、思いたくなる。 そこでもし仮に、当の現実を上書きすることができたら、どうだろうか。 たとえば高校生アニメの主人公である・であったと自分が思い込めるような状況に、自らを落とし込むことができるとしたら。 そんな場合に、上述のようなセリフを吐ける自信は、多くの人にはないのではないだろうか。少なくとも自分にはない。 失敗だらけ、後悔だらけ、いやなことだらけの過去を、たとえ惨めだろうと、一回性の意味のあるものだったと、肯定することは、難しい。

 そのことについてずっと考えている。 このシーンを再生し、何度も見、考え込んでしまう。

 催眠術をかけようとした人物の回想は象徴的である。 彼は双子の弟で、兄と自分が交換可能で、自分の人生の意味・意義に確信が持てなかった。 兄のように優秀になり、兄になり切ることができさえすれば、それでいいと考えてきた。 自分の固有名には意味がなかったのである。 だが彼にはひとつの記憶がある。 たまたま兄との競争でうまくいったとき、父が自分の名を呼んだことである。たまたま勝利したことに、意味があったのではない。こんな自分であるにも関わらず、兄に勝つことができた、というときの、「こんな自分」を成立させた条件に、意味があるのである。「文人もやりよる」と父が言ったこと、父が自分を認めたということ。「いつもうまくいかない文人が、このときだけは兄に勝った」というとき、それは、うまくいかない状況をも含めた彼を貫く、一本の固有名を、父が認めた、ということである。それは属性には還元できないことである。よって彼はそこに存在していたし、今も続けて存在している。 父はしっかりと、単に交換可能な属性としてではなく、固有名をもつ彼を、見、呼んでいたのである。 そのことが彼に、彼の一回性をよみがえらせる。 すべての経験を、意味あるものとして、遡及的に一本の糸で縫い合わせ、通し、成立させるのである。

 だがそこでいつも思う。そのようなことが可能だとして、はたしてそれで、ある大きな充実を得、自立することは可能なのであろうか。 そう問いかけながら、いつも、ぼんやりと、画面を見ている。あやしい気持ちになる。

 おそらく自分に子供がいたら・できたら、何も考えないですむんだろう。ありふれた話だ。 自分の目的を、子にすれば、結論を先延ばしにすることができるから。 子も自分と同様、どうせろくでもない人生を送るのだろうが、しかしもしかしたら、彼・彼女は、自分の目的を、意味を、成し遂げるのではないか。そう思わせる力が、そこにはある。 自分の小さい頃の記憶のなかで、うえに立っていた親と、現在の自分がシンクロして、めまいのようなものを引き起こすから。 でもそれは、ただのめまいに過ぎないのではないだろうか。 錯覚にすぎないのではないだろうか。 そういう風に思うから、希死念慮が年々増すか、祈る対象を宗教的な場で見つけたくなる。 あるいは、ありもしない絶対の享楽を将来に予約して、現在を酩酊でやり過ごすか。

 このあたりのことに関し、このさきも同様、発見はないだろうから、何も期待はしていない。