イントネーションと吃音

上野千鶴子の東大入学式祝辞を、映像で見てみると、文字で読む場合とは違った印象を抱く。それは言葉のイントネーションにある。方言・外国語・文体の、あらゆるものが混じってトランスリンガルな感じがある。受け取るのが難しく、内容を把握するためには、耳を傾ける必要がある。

我々のマイルドヤンキー的生活世界には、よく知られる次のようなコミュニケーションがある。相手方の語る言葉の内容ではなく、その形式に注目し、逸脱性を指摘するコミュニケーションである。いわゆる「ツッコミ」を通した、差異の回収・無化の作法である。異質なものに対する不安を、無害化する手法のひとつである。その場にとって標準的ではないイントネーションや吃音が、笑いの対象として指示され、内容は形式の可笑しさへと昇華される。そこで行われてきたのはずっと、毛づくろいを目的とした、コミュニケーションのためのコミュニケーションであるから、内容は重要視されない。ひどい分裂とともに発せられる吃音はすべて、その異質性に不安を抱く同質空間の地均しによって、消し去られる運命にある。

上野の祝辞は、社会的標準に対しての違和感を、知的なやり方で表明してきた学術分野の話である。それが生成する言説は、それまで当然とされてきた標準に対して、明らかに異質なものである。耳を傾ける意志がなければ、とたんに笑われるべき吃音へ回収され、消し去られてしまうものである。げんにそう扱われてきた歴史がある。

みずからとは異なったイントネーションや、なめらかに流れ出ることのできない複雑な吃音に対し、ひとは態度と未来を選択することができる。メタレベルの指摘で形式的な笑いに回収し、内容を消滅させて、同質性の延長を再生産する風土をそこに作り上げるか、またはその困難な声に耳を傾け、別の文脈をひらく未来への下地を作るかの、どちらかをである。